8月6日、広島原爆の日に寄せて
今日は8月6日。
ニュースでは「広島 原爆の日」「祈り」の文字が並ぶ。
毎年繰り返されるこのニュース。
なんとなく毎年感じていた違和感について、少し言葉に落とし込むことができたので記しておく。
この日はどのテレビ局も平和記念公園の様子を映し出す。祈りを捧げている人たちや、平和学習をする中高生の様子を。私も実際に去年のこの日に広島を訪れ、原爆ドーム前の川に灯籠を流したから、8月6日の雰囲気を肌で感じた。
祈りを捧げる、弔うという行動については実際戦争を経験された世代、その1つ下の世代にとっては実感があるだろう。
だけど、正直、私にとっては、そしておそらく私たちの世代にとっては、身近に犠牲者がいないから、祈りを捧げることはできても、抽象的であるためイマイチ定義の曖昧な「平和」を願うことになる。
毎年8月6日も9日も15日も、過去を振り返るのはいいのだけど。実際にどうしても考えてしまうのだけど。
違和感があること一つ目は、ニュースで伝えられる、「戦争を二度と起こさないために
戦争の悲惨さを伝えてゆくことが大切」というもの。そうすれば必ず戦争は起きないの?
それでも世の中から戦争はなくなっていないよね?
二つ目は、「戦争経験者の高齢化により、直接の記憶がある語り部がどんどんいなくなっていることが今後の課題だ」というニュース。
そんなのさ、当たり前じゃん。戦後70年以上経ってるんだよ?いつまでご高齢の方に話していただくことに頼っちゃうの?って思う。
それよりもさ、語り部さんから戦争を直接の経験として語られなくても、これからを生きる若い世代が自分の頭で考えられるように学べる環境を整えることの方が大事じゃないのかなあ。
戦争は人が死ぬ。罪のない人々が次々と殺される、良くない。それはたぶん一度でも今までの教育で触れたことがあれば分かると思う。
だけど、そんなの、毎年言わなくても分かることない?ニュースを見ているのは大体が大人でしょ?
どこかのお偉いさんは、命を次々と落とすことの悲惨さを全く知らずに戦争を起こそうとするのか?
そうじゃないよね。「戦争は人の命を奪ってしまう、悲惨な行為だ。それをわかっている人々でさえ、戦争を起こしてしまう」事実を踏まえた上での「戦争を起こさないためには?」の疑問だと思う。
私は、その答えは「相手の言葉を、考え方を知る」ことだと思う。
世界には、資源の偏りがあること。
強者と弱者がいること。
口喧嘩では解決できないことがあること。
暴力や脅しで抑えつける場合があること。
自分の理想だけで世の中は動いていないこと。
自分と相手が意見が異なるのは当たり前だということ。
これらを知った上で、限りある資源を分け合ったり、妥協案を探るにはどうすればいいのか。
ちょっとずつ学んでいくしかないんじゃないかな。
具体的なやり方は分からないけど。
そんなことをブワッと考えた、8月6日でした。
文章を整えるために、週末公開になってしまった。